アンコールワットを訪ねて  09〜15.07.2005


アンコールワットに行こう!
  ジャングルの中にひそかにたたずむアンコールの遺跡。。。
  私の中では、それは木の根の魔の手に絡まれた瀕死の姿で私を呼んでいるような気がしていた。


  去年カンボジアを訪ねた友人が言った。
  「行くなら、なるべく早くがいい。。どんどん俗化して、本来のカンボジアの良さがなくなる」

  クメール人が作ったこれらの遺跡は、ジャングルの樹木に覆われてつい最近に発見されたのである。
  この、大きな石を、何処から、なんのために、どうやって運び、この高さに積んだのか?
  この繊細で緻密なレリーフは、誰がどうやって、どのぐらいの歳月をかけて彫ったものなのか?
  その人々の生活は?  家族は?  食事は? と、次々と興味は尽きない。

  それでは、老後の暇になってから。。。では遅すぎる、今年行こうと決めた。
  例によって、毎月、毎週のように送られてくる旅行社の案内をパラパラとして、早々と予約を入れた。
  「感動のアンコールワットと憧れのベトナム2都市物語7日間」当社一番の集客の人気コース これだ!
  我々にしてはちょっと長めの7日間で疲れないかちょっと心配だったが、それなりに楽しそうだ。
  出発前の一週間は、陶芸の作品展もありかなり忙しかった。
  冷蔵庫を片付け、ごみを捨て、花に水をやり、銀行、郵便局をまわり。。。と、ガイドブックもスケジュール表
  もほとんど見もれなかった。
  いつも、ここの旅行社のスケジュールは目一杯盛りだくさんで、あれもこれもと走り回るのは、わかっていた。
  アンコールワットの本は、行きの飛行機の中で読もう。


ハノイに戦争の影をみる
  アンコールワットは、シャム・リアップにある。 日本からだとハノイ経由が早くて便利だという。
  私のツアーも、ハノイから入った。


  ハノイの街は、大きな湖に面していて、美しい大きな街路樹と整備された芝生が美しい街であった。
  人々は、朝7時半から夕方5時まで働く。その通勤は、ほとんどがオートバイである。

  町には、信号があまりなかった。アリの行列のような無数のオートバイが、それぞれに思う方向に
  右に左に、割り込み、横切る。人もまた、その中をゆっくりと横断する。
  バスも車もオートバイも、クラクションを気短に鳴らしまくるから、それは、にぎやかでスリルに満ちた
  もので、乗ってるだけでも身の細る思いだった。
  早朝に散歩に出た私は、反対側に渡れなくて、しばし立ち尽くしてしまった。
  現地の人たちは、そんな我々を尻目に、悠然と笑いながら渡ってしまう。 
  オートバイは、人口の1/3の数というから、成人一人に一台というわけか…HONDAが人気だが高い。
  中国製は、その1/3だけど、すぐに壊れるそうだ。
  

  ベトナムの戦争が終わって30年、その後のカンボジアのポルポトの戦いが数年あった。
  戦争を知らない私は、現地ガイドさんの言葉が胸に突き刺さる。 それは、母に聞いた戦争体験に
  良く似たことだったが、それが、ついこの間の事実として聞かされるとバスの中でもあくびなどしておら
  れない。

    「戦争は怖いです。戦争はとても怖いです。 B52は、とても怖かったです。」
    「私の兄弟は8人です。その時は、女も18歳から55歳まで。男は60歳まで戦争に行きました。
     兄4人が戦争に行ったので、私は行かないですみました。 アメリカ軍は枯葉剤をまきました。
     いまになっても、その後遺症で奇形児が多いです。私の兄の子も、ひとり奇形児です。
     可愛そうです。 戦争に従軍した女の人は、枯葉剤で穢れているので、一生結婚できません。
     そんな人が沢山居ます。 戦争は怖いです。」
  ホーチミン廟を訪ねたとき、その当時は、街のあちこちにあったという、一人用のマンホールのような
  防空壕を指差して、彼女は話した。 空襲になると、この中に入って膝をかがめふたを持っていたと。
  怖かっただろうと想像できる小さな防空壕だった。

ホーチミン廟 一人用防空壕


アンコールワットは一つではなかった
  愚かな私は、アンコールワットの遺跡は、樹木に覆われ、巨大なガジュマルの樹の根で押しつぶされ
  そうな姿を想像していた。
  実際には、9世紀から15世紀にかけて、インドシナ一帯を制圧していたクメール王朝の首都跡である。
  都は、城壁に囲まれたアンコール・トムを中心にして栄え、南には堀をめぐらした巨大なアンコール・ワット
  があり、そのまわりには、さまざまな遺跡が点在し、その多くが世界遺産にに指定されているのである。
空から見たアンコールワット

アンコール・トムはクメール王朝の首都遺跡
  12〜13世紀ジャヤヴァルマン7世によって構築された首都跡で、総延長12キロに及ぶ堀と城壁で囲ま
  れている。
  アンコール・トムの中央に位置し、その複雑な建築様式の仏教遺跡は、バイヨンと呼ばれている。
  回廊を巡り階段を登ると、顔が四方に掘られた大きな塔が林立し、われわれを迎えた。
  その顔は、クメール人の穏やかな微笑みをたたえ、口元が印象的で、千年も前の微笑みかと思うと感動的
  である。



アンコール・ワットはすごい
  12世紀に作られたヒンズー教を、後に仏教寺院に宗旨替えしたもので。その三十の回廊には。クメール
  の人の神話が、緻密に美しく彫られていて圧巻である。
  その壁、その柱、その床。。。すべてが砂岩で出来ているから毎日磨り減っていると思う。
  ものままでいいのか? 風化されるのも時間の問題と思われる。
  三層目の回廊にある階段は、細く急で登るのは勇気を必要とする。が、、ここまできたんだから、、、、
  登らないわけには行かない。。。。
  階段は、下に向いて磨り減り、ステップは浅い。つかまるところも無く、頭の中で三点確保と唱えながら
  四つんばいになって登った。 怖かった。
  ようやく登りきり、回廊から遠く緑の樹海を見るとき、1000年の時の流れが止まった気がした。
  さて、、問題は、、登ったら下らねばならない。 スコールの後の砂岩の階段は、ズルズルとすべり、
  実にスリルに満ちている。 下りの参拝者のために手すりが一本付けてあるが、みんながしがみつく為か
  それは針金のように細く心もとない。 全身を目にしてすべての筋肉を足先に向けて…疲れるのである。

  ここは、入り口が、他の寺院と違って西にあるという。東は、生を表し、西は、死を表すのだそうで、ここは、
  もしかするとお墓か?といわれているそうだ。
  蓮池に写るその姿は美しく、当時の人々の文化の高さがうかがわれる。




タ・プロームのスポンの樹
  スポンとよばれる巨大なガジュマルの樹に支配された 12世紀に建てられた仏教寺院は、私の思い続けて
  いたそれだった。
  まるで生きている木の根が、大きな石の寺院を持ち上げ、引き裂き、飲み込もうとしている。
  回廊は、よろよろとして一部では根によって切り裂かれている。 すごい。
  今も、毎日少しずつ飲み込まれている遺跡。。。そこに立ち、時間を共有していることに感動する。



バンテアイ・スレイのすばらしいレリーフ
  東洋のモナリザと呼ばれる美しいレリーフがある10世紀後半の寺院で、赤い砂岩で作られているので
  全体が赤黒いが、寺院の名前は、「女の砦」とい言う名前である。
  その寺院全体が緻密な彫りで飾れれており、その美しさ、細かさに驚かされる。 この柔らかそうな砂岩
  の壁面がレリーフが、いつまでもつのであろうか? 見学者の手や帽子、また雨傘が擦れないか気にか
  かる。 
  ここの美しい女性のレルーフは、他の寺院のそれと違って、やさしい柔和は顔をしている。
  その美しさから「東洋のモナリザ」とよばれている。
  フランスの小説家アンドレ・マルローが、闇夜に紛れて盗み出した石像におもわず頬ずりをしてしまった
  とういう逸話が残っている。




★世界遺産と人々の生活
  ただでさえ、首都から遠く離れたシャム・リアップの街。そのさらに郊外の遺跡近くに住む貧しいクメール
  の人々の生活は、貧しいものだった。
  バナナの葉をのせただけの粗末な掘っ立て小屋に子供は裸足だった。
  世界遺産に認定ということで電気も通せないのだとか。。。人々は、背の高いろうそくの樹と呼ばれる
  大きな樹から蝋をとり、ろうそくや発電機の生活をしている。
  町までは30キロ、40キロの距離があり、人々は、毎日そこを自転車で仕事に通う。
  舗装もされてるわけでもなく、スコールが降れば泥の海のような赤茶けた穴だらけの道を、毎日2−3
  時間かけて仕事や学校にかようのだそう。 朝夕暗いうちから家を出るという。
  遺跡を回ると、子供たちが腕輪や木の実のネックレス、Tシャツなどをもって追いかけてくる。
  「全部で千円」 「5ドル、4ドル、、、いくらだったら買ってくれますか?」
  彼らには、日本人、韓国人、中国人等が区別できるらしい。。。実に流暢な日本語で声をかけてくる。
  夕日を見るためにプレループ遺跡に登った時も、小さな3−4歳の可愛い少女が姉たちとついてきた。
  みんな澄んだきれいな目をしていて、憂いを含んだ濡れたような目をして懇願する。
  「おねえさん、買ってください。。。ひとつ、ふたつ、、、、にじゅう。。全部でにじゅうで1ドルです」
  一ドルで腕輪を買う。同行の娘さんが子供に聞くと学費にするという。事実はわからないが、お礼にと
  プルメリアの花を差し出したという。夕日を待ちながら、かわいい彼らともう少し一緒にいたかった。
  そこに住んでいる彼らは自給自足の生活だから、4人家族で一ヶ月10ドル位で生活しているのだそうだ。
  バナナや果物を売り、川で魚を獲り、米を作っているので、それでも何とかなるのだそう。
  飛行機を乗り、遠くからやってきて、5つ星ホテルに泊まってご馳走がまずいと文句を言っている我々は
  彼らからは、どんなように写るのだろうか?

畑に点在する島は、蟻塚



ラスベガスのように。。。
  「2年前に、来た時は、ここは何もなかった所です」 同行の添乗員が驚きの声を上げる。
  埃っぽい道の両側には、万国旗を掲げた美しいホテルがいくつも並んでいる。 緑の芝生、美しい街路樹
  色鮮やかな観葉の樹木の植え込み・・・踊りも見せるという民族館。。
  夜は、それぞれに、今はクリスマスかと思うようなイルミネーションである。 これでいいのか。。。。
  ホテルの窓から見ると、きれいなプールの遠く向こう側にもまた、ホテルを建築中である。
  舗装道路も下水道もない、一歩道をはずすとバナナの葉の家に住み、素足の子供たち。
  日本の援助で作られたという道は、立派だった。その道沿いに植えられたスポンの樹は、まだ人の背丈程で
  この国の今を象徴しているように思われた。



ベトナム(ハノイ、ホーチミン、ミトー)とシャムリアップの食
  何しろ暑かった。。。すべての毛穴が開ききっても熱が放出できない。。。皆のぼせきった赤い顔をしている。
  何処に行っても、食事は、まずはビールを飲んで。。。となる。

アンコールビール サイゴンビール タイガービール バババ(333)ビール



  それにしても良く食べたものだ。。。これは、ごく一部なのだから。。。
  それに、私は、すぐに主婦根性がムクムクと湧き上がり、残っていると…ついお皿をきれいにしてしまう。
  そんなわけで、人様の二倍食べたおかげで帰宅したら2キロも太っていた。。。(>_<)
  出かける前のダイエットはなんだったんか〜っ、、、
  しかし、美味しいものを食べる幸せは、何にも勝る幸せだった。
  しばらく、また、ダイエットしなくてはならない。何しろSサイズのアオザイを買ってしまったのだから。。。



おまけ メコンデルタの街ミトー
  南ベトナム野町ホーチミンから少し南の港町ミトー。 
  河岸のレストランで、エレファントフィシュの唐揚をライスペーパーでまいて食べた。
  大きなライスボールも珍しく、もち米の揚ボールは、うす甘く、どこかで食べた懐かしい味だった。。
  メコン料理も河岸でいただくと思いで深いものになった。
  川岸から船に乗り中洲のタイソン島に渡る。住民は果樹や蜂蜜、ココナツキャラメルをつくっている。
  人懐こい人たちで、歌や果物で歓迎してくれた。 
  その後は、小船に乗って、水椰子の間を少女の艪で進むミニジャングルクルーズ。
  海あり遺跡ありの変化にとんだ旅だった。



2005.07.15

  










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